2011年04月27日

気仙沼・南三陸・日本医事新報 千葉正道先生より

日本医事新報20110423.pdf
登山医学会会員の皆様

南三陸町の避難所の総合体育館の駐車場の1角に、イスラエルの医療チームが残していったプレハブの建物が、現在公立志津川病院の仮設外来として使われています。眼科、耳鼻科、皮膚科などは、週2回ていど、東北大病院からの応援を得て診療している。入院施設は、隣町の旧登米市立米山病院の2,3階を借りて、医師を3人配置し対応している。

気仙沼市では、開業診療所36施設中30施設が流されたいう。気仙沼市立病院は比較的高台にあり難を逃れた。気仙沼市立病院と公立志津川病院の中間にあった気仙沼市立本吉病院は、1階は浸水し2階で診療していたが、院長を含め2人いた常勤医は辞職したという。現在は、TMAT,JMATがつないでいる。

宮城県北の拠点病院では、がれき処理の際の外傷による破傷風や、エコノミー症候群によると思われる肺塞栓の発症が報告されている。また、自宅での発電機使用によるCO中毒も散見される。

日本医事新報 No.4539(2011.4.23)で、’被災地だけではない低体温症’として日本登山医学会が紹介され、小生も取材を受けた記事が載りましたので、添付します。

仙台市青葉区 千葉正道
posted by 事務局 at 21:05| Comment(0) | 会員情報

2011年04月25日

仙台の千葉先生から 2011/04/25

仙台の千葉先生からです。 2011/04/25

千葉先生は以前、今は消え去った、公立志津川病院の副院長をおつとめでした。ですから、いまは何度も南三陸町にお出かけされております。
南三陸町は(昔は志津川と呼ばれていました)最も厳しく破壊された地域のひとつであるとだれもが認めるところです。きょうも豪州の首相が入りました。

このような破壊とそれに伴う限りない悲劇は、東北の太平洋岸北から南400km域で起こりました。
東京から下れば、名古屋いや大阪までやられたことになるかもしれません。

*******************

登山医学会会員の皆様

南三陸町の避難所の総合体育館の駐車場の1角に、イスラエルの医療チームが残していったプレハブの建物が、現在公立志津川病院の仮設外来として使われています。入院施設は、隣町の登米市立米山診療所の2,3階を借りて、医師を3人配置し対応している。
宮城県医師会のニュースによると、県北の拠点病院には、破傷風や、肺静脈血栓症の報告もきているという。また、自宅での発電機の使用によるCO中毒も報告されている。(千葉)
posted by 事務局 at 22:30| Comment(0) | 会員情報

2011年04月15日

油井先生より医療支援活動報告

整形外科医の油井直子です。
遅くなりましたが4/8〜/10までの活動内容についてご報告します。

メンバー、移動経路に関しては安藤さんの報告をご参照ください。

出発に先立ち自分たちで準備したものは、ガソリン40L、水16Lタンク分と2Lペットボトルで約8本分、自炊用の食料とテント泊用の道具一式。また今回は整形外科的対応を想定していたので、外用湿布薬を(試供品も含め同僚や関係者からの援助により)小さい段ボール2箱分ほど持参しました。

1、整形外科的に対応した内容:
4/9(土)小滝地区、長観寺、大指林業センターでの診察 計9名。それ以外に依頼のあった自宅への往診3件(64歳―脊髄小脳変性症、93歳―眠剤内服後の意識低下、97歳―腰椎圧迫骨折と悪性黒色腫)。
4/10(日) 相川、はまぎく避難所での診察計11名。往診なし。

2日間通した症状の内訳は、腰痛7件、膝関節痛6件、肩こり4件、左足関節痛1件、左肘拘縮1件で、持病である慢性疾患の悪化と震災のがれき撤去や炊き出しなどによる労作性の肩こりを認めました。
疾患としては、変形性脊椎症、腰椎圧迫骨折、腰筋筋膜症、変形性膝関節症、頚椎症、骨粗鬆症、肩関節周囲炎、左肘部管症候群の術後などで、 薬の内容が明確で、避難所のストックから手に入る場合は追加でお出ししましたが、ほとんどの方は外用湿布剤で対応が可能でした。しかし、それすら手に入らない際の対処として、小西先生(PT)にお手伝いいただき膝痛の方へは大腿四頭筋訓練を指導しました。が、実際に継続してやってもらえるかは分かりません。
また、腰痛用のコルセットも持っていた方に聞くと流されてしまってどこ行ったかわかんね、状態で出来る事は限られてました。

2、直接の対応/処置は以下の2件。
 一件は、3/14雪道で足を強く捻ってずっと痛みを我慢していた59歳女性。炊き出しや避難所の作業に追われ検査どころではなかったようで、既に受傷後4週近く経過。診察上、左腓骨遠位部・脛骨内果骨折が疑われたため、疼痛予防の最低限のテーピング固定を小西先生(PT)にやっていただき、大変感謝されました。(テーピングはご本人が持っていたものを使用し、最小限の範囲で指導。)
4/14にようやくかかりつけ整形外科へ行くというので、こちらからは骨折の可能性を説明し、きちんと調べてもらうよう依頼しました。
もう一件は、脊髄小脳変性症で往診した64歳女性。震災後、デイケア施設でのリハビリが完全にストップしたため困っているという事情でした。幸い四肢の拘縮はひどく有りませんでしたが、このまま車いすに座った状態が続くと明らかに体は固くなるため、ご家族に負担のかからない範囲でのリハビリ指導を一緒に施行しています。メインは小さな子供を持つ娘さんに頼るしか方法はありませんでした。
 
この家と同様、地域の福祉を利用しながらどうにか機能が維持されている高齢者や肢体不自由疾患をもつ人々にとって、今回の震災は極めて厳しい仕打ちとしか言えないです。
整形外科的対応を総じると、慢性疾患への対応が一番多かったと言えます。湿布一枚でも大変喜ばれたので、持参して直接渡してあげたり張ってあげたりした事は、大変意味があったかもしれません。

3、救急搬送の関与
安藤さんが既に説明されている、往診で訪問した93歳の男性。もともと慢性呼吸器疾患で片肺しか機能していない高齢の方であるが、自分で起きて歩く事は出来ていたそうです。
4/6の夜、不穏のため家族が睡眠を服用させてから、ずっと寝続けていてなかなか覚醒しないため大丈夫でしょうか?との依頼でありました。一週間前には脱水に対して齋藤先生が点滴をしてくれていた人で、状態としては要注意人物であったそうです。斎藤先生にも再度ご判断頂いたうえ、全身状態は以前に比べても明らかに悪化してたため、息子さんの車を利用して石巻日赤の救急へ搬送する事になりました。藤木看護師と石巻専修大学の山内先生に同行してもらってます。救急外来でもサチュレーションは拾えず、静脈採血困難。動脈採血へ。検査上、貧血(Hb=5.0台)と輸血の必要性があるため
緊急入院となりました。貧血の原因が消化管出血であるか否かの判断は日赤のドクターに任せるしかありません。夜間9時過ぎに尋ねた時の経過では、room airで 血ガスPco2 =48、Po2=66、のところ酸素吸入でようやくPo2=100、血圧160/100にまで回復。結局のところ、脱水、低栄養、貧血、低酸素、の所に眠剤が効いて、肺炎も併発という経過でありました。いつもは息子さんやお孫さんが自宅で面倒見てくれており、入院後は市内に妹家族がいるので来てもらえます、と一安心してました。

今回、往診に出向かなかったら齋藤先生に相談する事もなかった訳で、となると全く医療関与がないまま、このおじいさんに関しては家族がおろおろするばかりであったでしょう。今思うとぞっとします。そうでなくても月曜日には既に現地入りしていた愛媛の医療チームが担当する事になっていたそうですが、一日でも早めに対応でできたことは不幸中の幸いでした。

4、移動手段について
今回は二度目の参加となる三浦Dの安藤さんが全行程いてくれたので、道に迷う事もなく、比較的スムーズに現地へ入る事ができました。道路事情も不安定、通行止めもあり、慣れない土地でいざ動こうと思っても土地勘がないと相当ムリであります。よって、今後現地へ入る方はルートやその土地の事情ををある程度分かっている人と一緒に行く事を勧めたいです。また、帰路に着こうと高速をめざしても三陸道はかなり帰省渋滞が発生してました。下道でのショーットカットが必要です。東京都内から出発して、休憩3回入れて約6時間はかかりました。

5、医療支援の参加形態について
今回のような日本登山医学会のボランテイア支援は、自己完結の出来る医療集団として大変意味のあるものと感じていますし、自分もそう有ろうと準備して参加してきました。幸い現地を目の当たりにした活動ができて、今でもいろいろ考えさせられてます。そういった経緯のなか、徐々に医療ニーズが変化していると肌で感じましたし、現地で活動する他県医療チームとのダブりも明らかになっていたので、すでに継続性の困難な個人的な支援は、かえって現場の迷惑になるので、避けた方がいいように思いました。きっと時期的にみて、広く浅くの医療を継続してやれる体制がいいのかもしれません。

今後の支援体制の解決策としてですが、各地の医師会や各大学レベル、各民間病院レベルでも継続的なチーム派遣を行なっているはずです。まずはその存在を確認した上で、現地へ行きたい、あるいは行ける先生方はチームに組み込んでもらい、医師としての保障や後方バックアップの十分な状態で被災地支援を行なって行く体制の方が動きやすいのではないかと思います。山岳医としての立場も意味ありますが、それ以前に我々は医師なので、きっと助けを必要とされていますし、絶対どこでも不足しているはずです。

現実的な話、私が今回個人のボランテイアとして参加するにあたり、所属大学に正直に申告してから出かけようとしましたが、最後の最後になって大学から「先生の気持ちは十分理解するけど、個人活動中に何か起こっても大学は一切関与しませんよ!」としっかり釘を刺されて出陣しました。ただ、これはうちの大学でもチーム派遣体制が存在していたからこその話で、行くならチームで参加して下さいと言う理由があったからです。今後長期戦の医療支援が必要となるからこそ、特に勤務医の立場で被災地へ行かれる先生に対して以上の点、私からアドバイスいたします。(それでも、頼まれたら黙って出かけてしまうかもしれませんが・・・。)

6、個人的な感想として
内科系の先生がいてくれると、本当に助かります!。高血圧、糖尿病、高脂血症、胃潰瘍、不整脈、・・・・避難所はほとんどが高齢の方々なので薬の調整など、本当に大変でした。大勢いてくれても不足は無いように思いました。今回も斎藤先生や西岡先生がいなかったら、整形外科の私など全く太刀打ちできなかったと思います。参考までにですが、現地へ出向く先生方は「今日の治療薬」最新版を持参下さい。新薬からゾロ品まで、いろんな薬が普及してます。なじみのない薬は全く分かりませんので、あると大変助かります。また、薬をなくして何を飲んでいたか全く分からない人が多いのですが、薬の実写写真があると「青のシートで白い薬を飲んでました!」といった感じに、視覚的に見えれば、内服薬が即座に判明するといった利点があります。手間がかかるかもしれませんが、話を聞くより早いかもしれません。

スポーツ医学的なリハビリも想定しまして、同行の小西先生と一緒に体操指導などできるといいな・・・と思ってましたが、「さあ皆さん、一緒に体操しましょう!」なんて、言える雰囲気ではありませんでした。避難所も明るく、落ち着き、毛布や物資も行き渡り、週二回の入浴も可能、老人達は数名こたつに入っておしゃべりしている、確かになごやかムードではありましたが何するでもなく、定期的に配られる食事の時間を話しをしながら流れるままに費やしている、そう見えました。いきなりの訪問者にいろいろ言われたくないでしょう。お互いの信頼関係ができて、中にいる人たちからの要求が出て来てはじめてリハビリ的な体操が出来るのかもしれません。

以上、長い文面となり申し分けありません。 
短期間の派遣でありましたがご報告申し上げます。   油井直子
posted by 事務局 at 16:22| Comment(0) | 会員情報

2011年04月05日

仙台の千葉先生より

気仙沼から、北上町十三浜まで支援ありがとうございます。お疲れ様でした。
私も29日気仙沼市へ再度出向しました。
3月28日、地元紙(河北新報)の朝刊の’くらし’の欄に、低体温症がとりあげられました。配信元は、電話取材を受けた共同通信かと思われます。メール添付します。30日、NHK仙台局TVの’いま被災者に伝えたい 専門家に聞く注意点’の番組で低体温症について、解説しました。放送は4月1日の夕刻で東北6県向けです。また、日本医事新報の(追跡)の欄の取材依頼がきています。肩の荷が重くなりつつありますが、被災地の医師の責務かと思っています。
仙台市青葉区  千葉正道
posted by 事務局 at 12:14| Comment(0) | 会員情報

澤谷先生の被災地医療支援報告

<東北関東大震災における医療活動についての報告>

1. スケジュール
3月24日(木)日本登山医学会本隊で午後東京発→SAで他隊と合流し夜気仙沼着
3月25日(金)AM8:00気仙沼の医療支援拠点(気仙沼市民健康管理センター)にてミーティングに参加。その後石巻、南三陸の孤立集落(石巻市北上町十三浜、小指漁港周辺など)を回り、物資(アレルギー児用ミルク、おむつ、医療用手袋その他)を届けるとともに巡回診療。
 同日夜より本隊と分かれ、気仙沼へ。
3月26日(土)AM8:00気仙沼の医療支援拠点にてミーティングに参加。日本医科大学の救命救急チームとペアを組み、定点での診療活動、および巡回診療に参加。
3月27日(日)AM8:00気仙沼の医療支援拠点にてミーティングに参加。日本医科大学の救命救急チームとペアを組み、定点での診療活動、および巡回診療に参加。夕のミーティングに参加した後19:30頃より現地発、帰途に。
3月28日(月)未明、都内着。帰宅。

2. 活動内容
・日本登山医学会での巡回診療:十三浜の避難所において、パニック障害、身体表現性障害と思われる不定愁訴の60代女性を診察しました。精神療法およびストレスのセルフケアに関しての助言を行いました。
・気仙沼での日本医科大学と協力しての活動:
まず、気仙沼での医療支援拠点ミーティングに参加した折、全国からの精神科医の医療援助を受け入れ、統括している東北大学精神科の佐久間先生に増山先生が接触してくださり、児童精神科医として紹介してくださいました。
 主に全国から派遣されたDMATのチームが各地域の避難施設に拠点を作り、定点での診療活動と地域の巡回を行っているが、精神科医の常駐していないチームが多く、急な精神科ニーズに対応できていない旨をうかがいました。
 また、個々のニーズに対応して精神科医を派遣しようにも、東北大学精神科で独自に動けるだけの足(車両)が確保できていないため、結果的にはどこかのチームの診療に便乗する形をとらざるを得ないとのこと。(東北大学精神科も指揮系統が混乱しており、全国からの問い合わせに対応しきれていないようであった)
 上記を踏まえ、2日目以降は精神科医が常在していないが担当地域に2つの老健施設と、知的障害者および発達障害者の施設をかかえる日本医科大学のチームに合流し、精神科診療を担当することとしました。日本医科大学の担当区域は唐桑半島。唐桑半島は地理的条件(半島)もあり、支援の手が入りづらく、電力の復興にも時間がかかる地域です。また、被災した沿岸部とまったく無傷の山間部との落差が激しかったです。(この点は気仙沼の他の地域でも同様)
3月26日午前中には、知的障害者施設「高松園」を訪問。施設職員10名前後、入所者60名前後、避難民30人前後の施設でありました。施設職員が適切な対応を行うことで比較的状態は安定していましたが、自閉症の強い入所者で自傷や他害に至っている方が計2名あり。施設職員に負担がかかっているため疲労の色が強かったです。このため、主に施設職員との面談を行い(全部で計3時間程度)職員のストレス軽減に努めるとともに自閉症者の対応についてのアドバイスなどを行いました。
 同日午後には80人前後が避難している「中井公民館」を訪問。救命救急科の医師が内科外科の一般外来診療を行う傍らで、こころの問題についての相談を受け付けました。不眠の訴えが数名、また集団生活で他人に迷惑をかけるのではないかとの心配ごとの相談が一名ありました。
 その後、担当区域内の老健施設「つくしの里」「つくしの里 はやま館」の2か所
を訪問し、同施設の入所者および避難民の診療にあたりました。「つくしの里」ではせん妄患者が2名おられ、薬物調整を行いました。
 3月27日は前日と同じく中井公民館での診療を行い(不眠、強い悲哀反応のある方が一名おられました。)、午後からは地域の保健師から情報を得て、5件の巡回診療へ。うち2名には不眠などの主訴で処方を行い、残り3名については傾聴と精神療法のみで対応。また、「なにかあれば公民館へ」と情報提供を行いました。

3.今後について
 被害状況は現地入りしてみると予想をはるかに超えて酷かったです。
 しかしもともとの地域性もあり、隣近所をよく把握しており、孤立しづらい環境ができていること、避難施設内でも避難者同士での心理的ケアが有効に機能しており、疎外感を感じる人が少ない事は特筆すべきと感じました。ただし、現地スタッフの頑張りによって支えられている部分が大きく、むしろ今後はその点を十分にケアしていく必要があると感じました。
 被災地域での診療も比較的早期に復活しつつあり、あまり介入しすぎることも好ましくないのではないかという意見もありましたが、避難所の雰囲気が良好であるだけに、今後避難所が徐々に解散し、自宅へ戻ったり移転したりする人たちが増え始める時期には燃え尽きや寂しさ、虚無感に襲われ精神的に不調をきたす人が増加することが予想されます。

以上です。

澤谷 篤 拝
日本医科大学精神神経医学教室(4月より左記に勤務先が変わりました)

posted by 事務局 at 12:08| Comment(1) | 会員情報

東北地方太平洋沖地震メンタルヘルス情報

被災地のみなさま、ボランテイアのみなさま
事務局の皆様、
お疲れ様です。

外務省のメンタルヘルス担当のドクターより次のようなアドバイスをいただいたので共有させていただきます。

日本精神神経学会の「東北地方太平洋沖地震 医療支援のリンク」から、いろいろなwebsiteに飛びます。
http://www.jspn.or.jp/info/2011_03_11info/ms_news.html

ここから、[独立行政法人国立精神・神経医療研究センター] 東北地方太平洋沖地震メンタルヘルス情報に飛び、

災害精神保健医療マニュアル:東北関東大震災対応版(2011.3.16更新)(PDF)

国立精神・神経センターの金先生らがまとめたもので、非常に良くできています

今回の震災対応だけではなく、医務官の日常業務にも役立つものです。

特にP8〜12、II. 災害時こころのケアのあり方(1. 基本的こころ構え 〜 3. 初期対応)は必読だと思います。

「いきなり精神的な面について問いかけるのではなく、まずは当面の心配ごと、体の状態などから問いかけていくことがすすめられる。」

「それぞれの体験を詳細に語るよう勧めてはいけない。」

などなど、ついついヒートアップしてしまいがちな支援者のこころ構えについて、エビデンスを交えて書かれています。
ご参考まで。

荻原 理江

posted by 事務局 at 12:01| Comment(1) | 会員情報

2011年04月01日

支援隊参加メンバーレポート

今回、神戸から参加した若い登山家・山岳ガイドがいます。神戸震災を経験しています。また昨年秋、ネパールヒマラヤのダウラギリで隊員4人のうち3人を失いました。つまり彼が唯一の生き残りでした。死んでゆく方 がいる、それを受け止めなければならない遺族がいる、という共通の観念がが、 彼を石巻に行く我々日本登山医学チームに駆り立てました。
神戸を出てから富山に寄って、国立登山研修所からテントやロープやマットをお借りし、友人たちからたくさんの支援物資を集めて、新潟経由、福島で我々と合流したのでした。

記:増山茂

東北大震災医療支援隊:島田和昭氏レポート

現地に入る事ができて、少しでもできることがあり良かったです
そして、長期的に支援して行くために、おおよその環境が把握できた事は大きな収穫です。私としては、今後とも登山医学会の次の機会を優先的に、芦屋周辺市民やグループとの支援、またガイド協会の支援活動に、参加できるタイミングを調整していくしだいです。

 自分の主観的な感想と言いますか、報告を地域や知人等に配布しました。
阪神間の方々は被災経験から意識が高く、僕の報告書ですこしみえてくる現地の状況を、横の繋がりで伝えられているそうです。もどかしい心を落ち着かせる意味でも効果があるものかもしれません。

 以下、私が配布したレポートです

みなさまへ 
日本登山医学会のサポートにて、昨日東北被災地支援活動から帰阪しました。
活動場所は、宮城県石巻市北上町の各避難所でした。阪神大震災は地震の被害でしたが、今回の被災地は99%といっても良いぐらい津波の被害です。
津波が襲った場所とそうでなかった場所の次元が違います。漁村の施設や民家は壊滅、一方高台にあった民家は無事。津波は一平方メートルあたり50tのエネルギーと聞いている通り、津波の走路上に触れた建物は全て全壊。基礎の強い建物の皮だけは残っていますが、中は壊滅的。

漁村(北上町、小滝、小泊、相川、白浜等)では、漁師は地震後すぐに舟を海に出して舟を守り、家の者は身の安全のため高台へ多くが避難でき行方不明者は少ないものの、北上川河口付近の農村(月浜、吉浜、橋浦等)では津波意識が海の人に比べ低かったのか、津波を見に行った多くの人がのまれた話も聞きました。

特にショックな事は大川小学校で下校30分前に津波が襲い校舎三階まで押し寄せ7割のこどもと先生が行方不明に。発見された場所は70キロほど海を流され塩竈で発見されているようです。

ありえない形で家や車がころがってるような愕然とする光景が続く中、山間に残った避難所、民家8カ所程まわりました。往診・医薬品提供・ヒアリング・物資提供。それぞれのニーズが同じ町でも地区環境の違いで変わり、また避難所内でも被災状況により被災者の温度差がかなりあります。
基本的に道路開通が数日前でしたので、物資不足、医療不足ぎみ。(小さな村、リアス式半島の端あたりは、石巻、気仙沼などの大きな町よりも道路整備が遅れているという感じです)

医療では、診察、薬待ちの方多く、100名程の往診。(症状は風邪、せき、高血圧多し、特に流されて助かった方の疲労はひどい感じ)医薬品では、消毒液、マスク、大人おむつ、幼児用ミネラルフォーター等物資では、テント(低体温症対策、ウィルス患者対策、こども遊び場)ロープ(漁師の舟引き用)、ペンライト200本程(ビクトリノックス提供)、電池、自転車、食糧、ランタン、電池、シート、ロールペーパーなど全て提供できました。
物資提供で難しいのは、特に必需品になっているライトや電池を20〜30という単位ではなく、200〜300という単位でなければ、いざこざの原因になっていく点です。
例えば、各避難所人数が30人としても、その周囲に自宅で避難しているケースが多く、その数は100名ほどだったりします。せめてもの一世帯に一個がある程度均等に提供できなければ、偏りが生じてくるという事です。またそのような地区が町内には何か所もあるのが現状です。

国策や団体的に稼働している大型の物資(燃料、水、食糧、毛布)などは、道路 開通が早かった大きな避難所では早くに配給されている模様。しかし、ちいさい避難所や道路開通の遅い所ではようやく配給されている状態です。(シュラフ物資が避難所で放置されている場所もありました。基本的にシュラフより毛布優先、私たち登山をするものでなければ、シュラフの有効的な使い方保温性知らない感じでした。)

現実的な被災者のニーズは、今を生きるための物資と手段。物資はなによりガソリンと灯油。
(私たちは各車に50リットルほどガソリン携行、緊急車両扱いでも現地にガソリン在庫なく補給不可も多く、宮城からの帰りはようやく栃木の高速SAで補給できた状態でした)

被災者のニーズの手段は、断水、断線されている、電気、水道、ガス、電話、道路が早くからはいっている地区は衛星電話無料施設があったり携帯電話が繋がる所も、しかし衛星も携帯も繋がらない地区もまだまだ多いのが現状。そのような地区の避難所で情報として感じた事はテレビ情報がなくラジオと新聞のみしかしラジオを聞いてる間に人が来たり水汲み食糧分け、炊事洗濯、人探し、家探しも被災者忙しく被災地以外の日本人が危惧している(原発など)の情報や危機感は薄いと感じました。
外から見る被災地の様子と現実的な被災地の人々とのギャップはあります。

被災地を支援するための方法として、私が反省する所は、都会的な被災地の人や若い人は別としても、地元や仕事を愛 していた方々は多くが離れたくないとおもっている。一時避難であれ、今を生きている、捜している被災者に別県への移住は簡単ではないとすごく痛感しました。放射能汚染を一時的に回避するために他府県が積極的に被災者を受け入れればと、支援に行くリスクより被災者が安全圏へ一時避難すれば効率的だ、などと思っていたのが、非常に甘い考えと感じました。でも幼児や子供は長い目でみると、一時避難が有効だとは思うのですが。

支援は国策で動く部分と、ボランティア団体で動く部分、あと個人支援。被災地でも復興に動きだした場所と、今ようやく捜索が始まる場所。ニーズの違いが多くあり、一筋縄で医療・物資支援、被災者の生活支援、避難支援、被災者受け入れとはいかないのが現実です。また日々それらが変化しているのも現実です。

団体の場合は、縦と横の繋がりを持って効率的に持続的に。個人の場合は、縁のある方への1世帯単位での支援や技術者(医療、薬剤、看護、保健、介護、電気、燃料、など)が一時的に参加する事。
また気持ちの強い方は避難所で長期滞在し様々な事に対応できる体力がなければ、報道でも言われ始めた通り右往左往することになります。また今後被災地に最低限の水、電気、ガス、燃料がとおればニーズは大きく変わり、心のケア、体のケアのできる技術者が求められてくると認識しています。

今回私は、議員や医師会の縦横の繋がりから日本登山医学会への要請の元現地の災害本部で行き当たり的に困難なエリアを選定して救援に行く体制で参加しました。

なによりこれ以上原発問題が悪化せずに、しばらくは山水を安心して飲める状態でようやく開通し始めた沿岸道路が地震や津波で再び閉ざされないことを祈るばかりです。
posted by 事務局 at 16:36| Comment(0) | 会員情報

東北大震災医療支援隊その5

3/27(日)晴れ
8:00 北山町の災害対策本部にて医療コーディネータと打合せ後、北山中学校(避難所)にて医薬品を補充する。今日は、昨日の3か所を除いた浜地区の5か所の避難所を廻る予定。地元白浜の佐藤あつみ看護師が同行してくれる。

9:00 小泊の避難所。56名の被災者。ここは個人宅2件を利用している。10名ほどを往診。
 金比羅崎を望み防波堤で守られた小泊の入り江には漁船が多数浮かんでいる。しかし、入り江の奥に掛けられた幅10m長さ30mほどの陸橋の橋桁が跡形もない。1キロほど沖に流されたのだという。ここにあった12軒のうち10軒が流された。隣の小指では、46軒中残ったのがたったの6軒。すさまじい破壊である。
 佐々木家。おじいさんが話してくれる。昭和8年3月3日、昭和の三陸津波で流されたのでこの高台に引っ越した。それでもすぐ下まで水が迫った。30人くらいの被災者がここにいる。地震の揺れが収まるやすぐに小泊の漁師たちは船に
乗り込み沖に向けた。第一波は沖1kmくらいでやり過ごした。沖では崩れ落ちる大波となるわけではない。全体的に船が持ち上げられる感じがした。一番大きかった第二波は白波をあげてやってくるのが見えた。2キロ沖合でなんとかやり過ごした。津波が収束して岸に戻ってきたあと、接岸するのがとても大変であった、という。
 もう一つの避難所は、小室の阿部宅にある。23人の被災者。高血圧のコントロールが十分ではない方が多い。この環境では仕方がないともいえるが。医療品、夜間用シート、マスク500ヶ、ペンライト約40ケ、ナイフ約10本、ミネラルウォーター24 、テント6人用×1をご提供する。

10:00 白浜の避難所、白浜荘。白浜で残っているのは小高い丘にあるこの旅館だけ。夏には追浜湾を一望する気持ちの良い旅館であったろうに。プールはマキカマドの炊事場となっている。大広間に48人の被災者が泊っている。同行の佐藤あつみ看護師はここの出身である。
 数人の診察。今日はいい天気なので、被災者の方、ほとんど出払っている。まだ見ぬ親族知人を探しにである。医療品として、夜間用シート×1パック、ペンライト約40ケ、ナイフ約30本、ミネラルウォーター24 。

11:00 月浜の避難所(長観寺)。月浜には何もない。見えるのは小高い丘の中腹にあるお寺さん長観寺だけである。あとは、完全に破壊尽くされている。先人は賢い。長観寺は、浜地区とは言えないかもしれない。月浜は北上川が追浜湾に注ぐ河口左岸に広がる浜なのだが、長観寺はやや内陸に寄っている。つまり、河口の左岸域は完全に消え去ったということである。
 村内のほとんどが壊滅状態である。消防の方がかなり入っている。長い捜索棒を持って行方不明者を探索中である。全体的に避難が遅れ行方不明者も多いとのことである。他の避難所より緊張感が高い。ペンライト約40ケ、ナイフ約10本。

12:00 吉浜の避難所(高齢者福祉センターはまぎく)。吉浜、という地名であるが地図を見ると北上川左岸地区に当たる。以前は「浜」だったのであろう。対岸の長面浦手前の平地は堤防が決壊し水没したままである。
 地震後、津波を確認しようと堤防まででかけた方が多くいたという。小滝、小泊、相川、白浜の漁村では津波を警戒し、避難も早かった。しかし、月浜、吉浜、橋浦等北上川河口付近の農村では避難が一歩遅れたのではないかとのこと。
 吉浜はこの地区の中心地であった。津波避難所を兼ねた総合支所、消防署が建てられていた。みな無残に崩壊した。吉浦小学校も屋上を残して水没した。広い吉浜地区、残っているのはこの3つの残骸だけである。
 崩壊した建物の間を縫って高齢者福祉センターはまぎくへ。90名の被災者がここを頼りにしている。ごった返す食堂で10名程の診察。インスリン注射がままならなくなった被災者がいらっしゃる。明日以降のフォローを佐藤あつみ看護師に託す。
大人おむつ×1パック 大人マスク50、子供マスク50、ペンライト約70ケ、ナイフ約50本、ミネラルウォーター24 、生理用品×50、ランタン×2、消毒液×2などを提供する。

 14:00 北山町の災害対策本部にて報告。北山中学校避難所に医薬品を返還。増山・千島・田井・関崎・棚橋・黒田は予定通り帰る。安藤・島田は、現在石巻に向かっており、翌日診察予定の齋藤医師に業務引き継ぎのため残ることとする。気仙沼で精神科医療の援助を行ってきた澤谷も帰京の途に就く。

posted by 事務局 at 14:32| Comment(0) | 会員情報